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文責/版権:スーザン小山
2000年8月20日発行
映像、テキストとも無断転載、複写を厳禁します
All right reserved. Copywrite: Susan Koyama-Steele 2000, 2006 (C)
ナヴァホ国家の紋章
ディネタ(ナヴァホ族の国土)を護る4つの神聖な山に囲まれて、中央に羊が描かれています。
このページは、日本ではほとんど知られていない、それでいて、米国および欧州各国、カナダに熱狂的な収集家を持つナヴァホのラグについて紹介する ページです。ちょっと長いですが、リラックスしてお読みいただければさいわいです。
まずラグといちおう言っていますが、これは絨毯、または毛布といったほうがいいかもしれません。米国内ではブランケットという呼び名が一番普通で す。
そこでこのブランケットがインディアンのひとびとのなかで、どういう役割を果たしていたかということから一般的に話を始めます。
昔からインディアンの方々は、裁ち縫いした洋服のような形の衣服はなく、女性も、鹿皮などを直線だちで
縫ったものに、ビーズ飾りなどをしたものを着ていました。
ほかにホピとかプエブロのひとびとは木綿を昔から育て、そこで木綿の直線裁ちの衣服を着ました。みなそれぞれの土地から取れるものを材料に衣服としていた
わけですが、裁ち縫いは最小限で、ほぼ四角っぽいものを衣服としていたわけです。これはブランケットに近い状態です。
白人がやって来て部族のひとびととの交易が始まりますと、そこでインディアンの人々が白人と交易する品目のなかで、もっとも珍重したもののひとつが毛布(ブランケット)でした。これは羊毛を基盤にしたもので、寝るとき身をくるむだけでなく、昼間は身 にまとうものでした。昔の部族民の写真を見ると、ブランケットをまとっているひとが、必ずひとりやふたりはいるのがわかります。
このようにブランケットはインディアンのひとびとにとって、欠かせない日常の必需品でした。
ナヴァホ族のブランケットは、ではなんでそんなに有名なんでしょうか?いちばん最初にいいましたよね、これは米国や欧州では非常に珍重されている と。そしてこれを持つことはステータスシンボルになるほど有名なんです。
それを説明するには、ナヴァホ族の最近150年位の歴史を紐とかねばなりません。
ナヴァホ族は1850年代からは、それまでもそうでしたが、だんだんに白人の圧迫を強く受け初め、また周辺のホピやプエブロ族からも圧迫を受けてい ました。白人は土地が欲しいから侵入して来る、周辺部族はナヴァホ族の女性や子供をさらって、メキシコなど に奴隷として売っていました。だから生活は日増しに苦しくなりました。いまのニューメキシコとかアリゾナは、16世紀からスペインの、その あとはメキシコの領土でしたが、1840年代にメキシコとアメリカに戦争が起き、メキシコは 負けて、このへんはアメリカのものになりました。こうして、いわゆるアメリカ南西部の新しい 主となった合衆国政府は、いろいろな意味で、スペインよりメキシコより、遥かに土地侵略の態度が強かった。
そんなことからナヴァホ側の抵抗は当然激しくなったのですが、結局周辺部族のなかで数が一番多いところから集中的に目の敵にされました。ついには米 国軍隊による焦土作戦、飢餓作戦に追い込まれて降伏を余儀なくされ、1860年代終わりに は、ついに、300マイル以上東のほうにあるボスクラドンドというところに強制移住をさせら れました。これが有名な「ロングウォーク」です。老若男女をとわず、徒歩で強制歩行させら れ、歩けないものはその場で射殺されました。
ボスクラドンドというのはいまでは麦の穂など茂っていますけど、当時は乾燥し切った痩ち地で、アメリカ政府はこんなところで、本来は羊飼いの遊牧部族、ナヴァホ族に農業をして暮らせと強制したのです。でも穀物は植えても植えても旱魃にさらされ、いなごに責められ、来る年も来る年も不作続き、農業で暮らしのたつ道は開 けませんでした。多くのひとびとが飢死しました。
あまりの惨状に米国政府はついにこの強制移住政策は失敗だったことを認めざるを得なくなりました。そこでナヴァホの主だった族長たちを集め、オクラ ホマの農業によい肥沃な地か、あのフォーコーナーの先祖伝来の地か、どちらかを選んで住め、 といいました。
オクラホマなんてナヴァホのひとは誰も知りません。みな望郷の思いと餓えで痩せこけていましたが、これを聞いて躊躇することなくフォーコーナーへ帰りたいと言いました。どんなに肥沃であっても、知らない土地なんて行きたくない、故 郷の地「ディネタ(ナヴァホ族の地という意味)」へ帰るほうがずっといい、あの乾ききった砂 漠の地こそ自分たちの故郷なのです。羊を飼って生きる地なのです。
ひとびとはこうして、また300マイル、500キロの道のりを歩いて故郷に帰りました。でも今度は希望のロングウォークでした。多くの親族を失い、すべて
を失った傷心の身ではありましたが、みな故郷への足取りは軽いものでした。
さて、ナヴァホのひとびとにとってこれほどまでに大切な羊です。すべてを失った今でも、羊さえあればまた生活を再建出来る。
ひとびとは、あの飢餓作戦、焦土作戦のなかでほとんどすべてを失いました。ということは大切な羊を失ったということです。ボスクラドンドにも、羊を連れて
行くことは許されず、多くの羊を見殺しにしなければなりませんでした。でもそのなかで生き残った数少ない羊を一頭一頭ていねいに育てて、また数を増やしま
した。
もう、男性にとって狩りで暮らしをたてることは不可能になっていました。いまや国家再建のすべての荷は女性
の肩にかかっていました。
昔から、家族の重要な決定はいつも女性が下して来ました。難しい問題を解決することにナヴァホ女性ほど慣れたひとびとはいないでしょう。
ましてこの女性たちは、織物という素晴らしい腕前を持っているのです。ここにすべての希望がかかっていました。
折から外の世界では、進出して来る白人が、ナヴァホ女性のこの特技に目を付け始めていました。この素晴らしいわざを外の世界に紹介して自分も儲け、 ナヴァホのひとびとのためにも一役買おうということになりました。合衆国も、ナヴァホ族再建のための産業奨励ということで、白人商人が保留地に住み、交易
活動を展開することを積極的に奨励しました。
いまでもナヴァホ保留地のなかのガナドというところに、国立史跡として残っているハッベル・トレーディングポストなどは、そういう白人の、インディアン交易根拠地のひとつです。
そこでこれらの商人は、資力にものをいわせて東部の資産家、ヨーロッパの貴族やお金持ちにまで、インディアン交易で得た品の顧客を広げました。その努力は
成功を納め、優れた織り手の作品は遠く海外にまで、非常に高価な値段で買い上げられて行きました。東部やヨーロッパの裕福なひとびとに、このブランケット
の美しさは広く受け入れられ、そのエキゾティックな模様と、優れた耐久性でたちまちにしてお金持ちの必需品といえるほどのものとなりました。
東部の有名な美術館も、競ってこれを収集し、展示しはじめました。
ナヴァホ女性の優れた腕からいえば、これは当然のことといえるでしょう。
いうまでもなくこのような商人たちは、ナヴァホ男性の銀細工の技術向上を助け、いまの ような優れた伝統が生まれたのはこの頃からでした。でもその時期にはまだ腕前にはまだ研きがかかっておらず、収入のもとはやっぱり、女性の織るブランケッ
トが主だったのです。
白人による交易根拠地はガナドだけでなく、たちまち保留地中にひろがり、それぞれの地で独自の模様が開発されて行きました。これらは「ガナド」スタイル、「トゥーグレイヒルズ」スタイル、
「パインスプリングス」スタイル、「ティクノ
スポス」スタイルなどとして、いまでは収拾家のあいだにひろく知られているのです。このような作品の例はこのページでも紹介しています。
つぎに、ブランケットの織方などについて簡単に説明します。
まずは、いうまでもないことですが、ナヴァホのブランケットはすべて手作りです。
現在メキシコなどから安物の偽物が出回っていますが、これらはみな機械織りで、あの手作りのナヴァホ・ブランケットの素晴らしい手ざわり、強靭さ、味わい
はまったくありません。
Photocredits:Susan Koyama-Steele
Through the courtesy of Mrs. Fennie Goy
女性たちは春さきに羊の毛を刈ります。刈った毛は丁寧に洗ってごみや砂を落とし、それから、小さな針金のついてブラシのようなものですいてふわふわ にし、それを糸に紡ぎます。(上の写真左側参照)
紡いだ糸は、ナヴァホ保留地周辺の自然に生えているさまざまな草花で染めます。ひまわりから黄色、インディアンペイントブラッシュから赤、シュマックの根
からオリーヴ色、ジュニパーの実から茶色というふうにです。私の本によると、典型的な染料植物は35、6種
類あるようです。
みな、自然の恵みによって周囲で入手出来る材料ばかりなのです。
さてその次に、織るブランケットの大きさによってフレームを作ります。つまりは日本の昔でいう、さおですね。これは小さなものなら女性が自分で作れ ますが、大きなものは旦那さまに手伝って貰って作ります。
これに縦の芯になる糸を何条となくかけます。(上の写真右側参照)
それに、すでに染めてあるさまざまな色の糸を、デザインによって横糸として駆使して行くのです。
これでわかるように、この織物は、最初から最後まで、それはそれは面倒な手作業です。
でもナヴァホの女性たちはその面倒さをいといません。
自分たちの技に誇りを持って、すべての創作の情熱をそそいで製作なさいます。その創造力はほんとうに素晴らしいものだと思います。
でも、この素晴らしい創造のわざはどこから来たのでしょうね?
ここでナヴァホの神話を少し紹介しましょう。
ナヴァホ保留地のなかには、そとものには観光地としてしか理解されていないけれども、ナヴァホのひとびとにとってはかけがえのない精神的な価値をもつ、神
聖な地が幾つもあります。グランドキャニオン、モニュメントヴァレー、チャコキャニオンなどが
それです。なかでもキャニオン・デ・シェーは格別重大なところで、いまは毎年、観光客がひき
もきらないところですが、そのいちばん奥まったところに「スパイダー・ロック」という天に向
かってそそり立つ奇岩があります。
じつはキャニオン・デ・シェーが聖地であるのは、この岩のためであるといって過言ではありません。
なぜならそれは、ナヴァホ伝説の創造の女神「スパイダーウーマン」(蜘蛛の女性)が住むとこ
ろだからなのです。蜘蛛は織物の名人です。あの不思議な網目模様の家を自分で織るのは、本当に素晴らしい才能ではありませんか!?
ナヴァホの創造神話では、スパイダーウーマンは、ナヴァホ族のもともとの神である「ファーストマン」
と「ファーストウーマン」を助手として、ナヴァホの国を作った女神です。ファーストマンと
ファーストウーマンは、スパイダーウーマンの指し図によって「チェンジングウーマン」を生み だし、チェンジングウーマンが太陽によってみごもって生まれたのが、ナヴァホ族の先祖の双子で した。
このような話からわかるように、スパイダーウーマンとは、ナヴァホ族の生みの親の、そのまた上のまた上に属する非常に崇高な存在なのです。
そしてナヴァホ族の女性たちは、自分たちに織物のわざを教え、羊を授けてくれたのは、このスパイダーウーマンであると固く信じています。そして自分 達は織物のわざを続けるかぎり、あのスパイダーウーマンの特別な娘たちだと考え、非常な誇り をもっているのです。
(そこで「いやなに、羊はスパイダーウーマンが与えてくれたのではない、スペイン人が持って来たんじゃないか」などというようなひとがいたら、そのひとは
永遠にナヴァホの心を理解することは出来ないでしょう。なぜなら、ナヴァホのひとびとは心のなかで、スペイン人が羊を持って来たのは、スパイダーウーマン
がスペイン人にそうするように、取り計らったからだと信じて疑わないからです)
最後に:
つぎのページで、現在もっともよく織られ ている代表的なラグパターンを紹介します。
参考文献:
Bennet, Noel. "How to Tell Genuine Navajo Rug", Filler Press. 2000
Getzwiller, Steve et. al. "The Fine Art of Navajo Weaving", Ray Manley
Publications
Locke, Raymond F. "The Book of the Navajo", Mankind Publishing Co. 1992
その他多数