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野生動物と環境保護
 
涙 の街道
(チェロキー族物語)

2004年5月2日アップ
版権所有者:スーザン小山
[All rights reserved : Susan Koyama 2004(C)]
無断転載、複写を禁ず




チェロキー族は米国ではインディアンの諸部族中もっとも数が多いとして、国勢調査にトップで名のあがる、もっとも有名なインディアン部族です。
ただし私の考察では、これは国勢調査という、統計がもとになる調査の陥りがちな誤りで、全米中最大のインディアン人口を誇るひとびとはアリゾナからニュー メキシコ、ユタ州と三つの州にまたがる広大な保留地を持つナヴァホ族です。
それでいながら国勢調査では、いつもチェロキー族がトップにあがるのには理由があります。それはこの部族ほど早くから侵入してくる白人に友好的で、かつま たそのやりかたを学ぶのにさといひとびとはいなかった。したがって白人との結婚も非常に盛んで、だから部族のなかに白人の混血児がたくさん生まれたので す。その伝統はいまも続き、チェロキーの血をもつ白人はどれだけいるかわからないのです。国勢調査を実地に受けてみると、そこには多人種国家アメリカらし く、自分の人種を記入する欄があります。そしてこれは必ずしも自分の人種背景を証明しなければならないわけではなく、単に自分で「そう思う」というのを記 入すればよいようになっています。
これは国勢調査というまじめな話の割にはかなりいい加減なもので、したがって私はアジア系アメリカ人なわけですからその項目にマルをつければよいのです が、気分によっては、またひどい時にはアラビア人になったりしてもいいわけです。したがって白人でも、自分のひいおばあさんはチェロキー族だったとどこか で聞いたことがあるから、どこから見ても白人なのに「ではチェロキー族」というひとが出てきても、別にうそをいったから刑務所行きというわけでもないので す。したがってそのようなひとびとが「チェロキー族」となのり、かなり水増し臭いやりかたでこの部族はトップになっているわけです(もちろんチェロキー族 のせいではないのですがね)。
そこでこのページでは、このもっとも有名な部族について簡単にお話をしましょう。

チェロキー族は白人の来るずっと以前から、非常に先進的なひとびととして知られ、通商や農耕も盛んでした。
その伝統的領地はこんにちのジョージア、テネシー、南北カロライナ、そしてケンタッキー南部とアラバマ北部の諸州という広大な地域に及んでいました。です がご多分に漏れず白人の進出が始まると、少しずつ領土の譲歩を迫られるようになり、領土も減ってゆきました。そのなかで通商交易活動を通じて白人に友好の 手をさしのべ、かつまた白人のすぐれたところ、生活方式の発達したところはどんどんとりいれました。明治維新の頃の日本人のように、白人の技術の優れたと ころに感心してそれを真似、憲法とか、学校制度とか、新聞発行とか白人流の民主主義政治体制がよいと思えば、それをさっさととりいれていったのも、チェロ キー族でした。
実際に、従来から書き言葉というものを持たなかった北米インディアンのなかで、最初にアルファベットを発明したのもチェロキー族でした。下の写真の人物を 見てください。このひとはチェロキーと白人の混血でその名はセコイヤ(Sequoia)として今日に知られています。その彼が手に持っているのは、白人の アルファベットにしたがって彼が独自に開発したチェロキーの五十音(Cherokee Sillabi)です。
彼はインディアンである自分たちが白人に追いついてゆくためには、白人のやりかたを学ぶしかない。それには自分たちも政府を持ち、議会を持ち、それを運営 してゆくための根本の考えとしての憲法を作り、かつまた人材の養成のために学校教育を普及させることが肝心と考えました。そのためには意志伝達の手段とし ての文字は必須と考えたのでした。彼は十年近い歳月をかけてついにチェロキー文字を発明したのです。


単に言葉の響きだけから文字を発明するということがどれほど困難かということは、私たち の想像にあまりあるものがあります。
彼はそれをたったひとりで成し遂げたわけで、これは天才的なわざだといえるでしょう。彼の発明した文字にもとづいてチェロキー族は自分たちの憲法を作り、 ひとびとに政府の方針を知らせることは民主主義には絶対のこととして、新聞も発行しました。おかげで文字を読める部族民が飛躍的に向上、その文盲率は当時 の白人大衆よりはるかに低かったのです。
ですが時代が下り、白人との関係が非常にこじれ出しました。これはべつにチェロキー族のせいではありません。罪はむしろ土地に眼のくらんだ白人にありまし た。このようなとき、米国政府と部族政府の間には、土地の不法な略奪を抑制するために、政府同士の約束事である条約というものを結びます。そこでインディ アン部族国家と米国政府のあいだには無数の条約が交わされたのですが、残念なことにアメリカ側はそれをことごとく破ってきました。
チェロキー族の例はその先駆ともいうべきもので、条約も、なんども締結されては破約に終わり、部族はしだいしだいに土地を失い、追い詰められてゆきまし た。そして最後にジョージア州で、非常に不幸な出来事が起きました。それはこの州で黄金が発見されたのです。
のちに(1840年代の終わり)カリフォルニアに黄金が発見されていわゆるゴールドラッシュが生まれ、全米はおろか世界中から一攫千金を夢見る荒くれ男た ちがそこにかけつけたのですが、アメリカの西部開拓史の裏にはつねに黄金があり、それに目のくらんだ白人によるインディアンの土地盗みがあります。そのは じまりがジョージア州のゴールドラッシュだったといってよいでしょう。いまや白人たちはチェロキー族の排除を声高に要求し始めました。黄金の出る豊かな土 地を自分たちの手中におさめるためです。


さてここにアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)という軍人がいました。彼はのちに合衆国大統領となるのですが(上の写真参照)、このような最高権力にいたる出世街道のはじまりは、 1812年のイギリスとの戦争における勝利でした。彼は若い頃チェロキー族のなかに住み、部族の女性を妻にしていたほどチェロキー族とは深い関係にあり、 かつまた部族戦士団の助けがなければこの戦争の勝利はおぼつかなかったのです。
その彼が、大統領になるととたんに、かつて親子の関係すら結んだチェロキー族の排撃を、まっさきがけて推進したのです。彼は選挙時の公約どおり、チェロ キー族だけでなく現在の米国南東部に住むチャクトウ(Chaktow)、チカソウ(Chikasaw)、クリーク(Creek)、セミノール (Seminole)といった部族をオクラホマに追い出す「1830年のインディアン排除法」を推進、それが国会を通るとためらうことなく署名しました。
こうしてひとびとは、抵抗もむなしく兵士たちによって住む家から引きずり出され、家財道具を運び出すことも許されぬまま、兵士の放つ火によって住み慣れた 村々が灰燼に帰するのを涙ながらに見守るほかなかったのです。ほんのわずかな身の回り品を携えたひとびとは、夜となく昼となく家畜のように仮の収容所に駆 り出され、そこから船や陸路の徒歩により、遠いオクラホマにおいたてられていったのです。
このページのいちばんうえに示した絵は、引き立てられてゆくチェロキーの女子供、老若男女の姿を描いた非常に有名な絵で、画家ロバート・リンドノウ (Robert Lindneax)というひとの筆になるものです。暗い雲が空に立ち込める中を、うちひしがれたひとびとが黙々と追われてゆきます。馬の背に乗れたものは まだましなほうで、子供ですら徒歩での2000キロ、それはそれは長くつらい旅でした(下の地図参照)。
それでも夏に出発できたほうはまだいいほうです。1838年から39年にかけての冬のさなか、兵士たちに駆り立てられ、食料も不十分なありさまで強引に排 除されたひとびと。この道を旅した1万4000人の旅はじつに悲惨でした。失意と寒さと飢えのなかで、そのうちの3分の1以上が冷たいむくろとなり果てま した。かろうじて生き残ったひとびとは、涙のなかでその遺骸を路傍に埋めました。この街道はいまもひとびとが涙を流しながら歩いた道、『涙の街道』 (Trail of Tears) として知られています。そしてその道すがらに、春になると名も知れぬ花が咲きました。
ひとびとはいまこの花を『チェロキーの野薔薇』 (Cherokee Rose) と呼んでいるそうです(下の写真左参照)。

     

オクラホマについてからの部族のたどった道もまた多難でした。ですが持ち前の勤勉さと白 人にも及ばない果敢な開拓者精神を発揮、その子孫たちはいまもその誇り高い歴史を守っています。このひとびとの町はオクラホマのターレクワ (Tahlequah)というところにあるので、ぜひとも訪問することをお勧めします。この町の中には立派なテーマパークがあり、また博物館もあって、 チェロキー族の歴史と文化をいまに伝えています。
なお、ここにあるチェロキー政府は『西のチェロキー』と呼ばれています。なぜ西なのかということですが、じつは東のもともとの領土の一部であるノースカロ ライナ州の西のはじっこ、スモーキーマウンテン国立公園の南ふもとにもうひとつのチェロキー保留地があり、そちらは『東のチェロキー』と呼ばれているので す。ではどうしてこのように東西ふたつのチェロキー保留地があるのかということですが、じつは東のそれは、あの強制的な排除のとき、兵士の目を逃れて山の 中に逃げ込んだひとびとがつくったものです。このひとびとは排斥の嵐が収まったころ、ふたたび連邦政府に交渉して土地を確保し、東部チェロキー族として保 留地の設立に成功したのです。ここはあたりの風景が美しく、またすばらしい部族博物館やホテルもあります。部族政府は観光に力を入れていますので訪問はい ろいろと楽しいものなるでしょう。
私の大学時代の最大の親友はメディナといい、この東のチェロキー保留地からやって来た人でした。彼女とはその後離れ離れになって消息がしれないのですが、 私はぜひこの東部チェロキー保留地に彼女の家族を訪ねて、その行方を探し出したいと希望しています。
ではいずれまた。

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